食熱通信 vol.13

 いよいよ食の熱中小学校第4期が始まりました。第4期も多彩な講師の皆さんをお迎えしています。東京にいるのではわからない、他の地域の暮らしを知るきっかけになる授業や現地ツアーが予定されています。とくに今期は春から秋というもっとも動きのあるシーズンです。この機会をとらえて、ぜひ生産地とのつながりを作っていきましょう。もちろん毎月の授業後は、感想や体験談をぜひSNS発信して、口コミを広げてくださいね。

教頭 綛谷 久美

4月からの第四期生徒まだまだ募集中! 

ご友人、お仕事関係の方へもお声がけください!継続の方もお申込みをお忘れずに!

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座学:3月26日(水)18時30分   3×3Lab Future

講師:奥田 政行 先生 (アル・ケッチァーノ オーナーシェフ)

テーマ: 「ガストロノミーツーリズムのススメ」           

 僕は鶴岡生まれですが父が新潟県でドライブインをやっていたので新潟に住んでいました。店は大繁盛していて、自分の人生は安泰だと思って勉強しなかったら県で下から18番目の成績になり新潟県で入れる高校がなくて、山形県の鶴岡東高校に入りました。ですが21歳の時、父の店が倒産しました。債権者へのおわび、ヤクザまわり、土下座、裁判、競売手続き、全部やりました。自分が産まれ落ち、その後に新潟県に住んでそして鶴岡の学校に行ったので、自分の約束の地は鶴岡だと勝手に思ったわけです。そして、25歳の12月1日に、20年後にこの町を食べ物で元気にすると誓ったんです。ただこの土地には何かがあるって予感だけを信じて。

 でもその後勉強していくと、食で世界一になるためのいろんなものがこの町にあったんです。そしてこの45歳というのが後で本当にこの通りになるんです。
 さてその時お金は150万しかなく、国道沿いで駐車場が14台付いて家賃が10万円という、すごく安い居抜きの物件の場所で、初代アル・ケッチァーノは2000年に開店しました。
アル・ケッチァーノの名前の由来は、庄内弁であったわねー、という意味の「あるけっちゃのお」という言葉から来ています。2000年当時の料理界は、なんでもフランスのものがいいとか日本の野菜は力がないとか言われていて、いやいや庄内に来ればすごい野菜がありますよ、と言いたくて、「あったわねー」という庄内弁「あ〜るけっちゃのう」でアル・ケッチァーノにしました。
 ハーブはお金がなくて山に獲りに行っていました。すると植物の成り立ちがわかるんです。ノカンゾウのように湿度のあるところやツユクサのように日陰に生えるものは甘くなるとか、日が照る場所に生える野草は苦くなるということがわかると、地中海野菜がなぜ苦いかっていうのもわかってくる。多年草は年々根が太くなるので滋養分が多くなります。それで私は元気のない常連のお客様のために、お客様に出したいので、崖に下りては獲りに行っていました。まさに奥田政行、人生崖っぷちですね(笑)。

 無農薬の畑を自分でやってみると、とにかく雑草の処理が追いつかない。料理を作る時間がなくなり料理の仕込みができなくなってしまい、結局野菜のプロに頼んだ方がいいとわかり、途中で畑づくりをやめて生産者のところに行くようになりました。その結果、野草を採りに行くと毎回生産者の方がおまけをつけてくれるので、メニューがたくさん増えて黒板におまけ野菜のメニューも書くようになりました。そして、誰もやらないことやろうと思ってアラカルトメニューを100種類作りました。黒板で書くと面白いですよ。出したいメニューを丸文字で書くと出るし、出したくないメニューはカクカクした読みづらい字で書くと出ないんです。僕経営論の本も出しましたが、面白いのは、昼はパスタしか食べられないのですが、黒板の左側には夜しか食べられないメニューを書いておく。そうするとお客さんが夜の時間に来るようになる。よくランチタイムサービスってありますが、そうするとお客さんはランチタイムが安いとは思わず夜が高いと思ってしまうんです。だから昼と夜の値段は同じにして、夜来てもらえるように黒板に書く方がいい。そうやってきました
 地元のものなんてそんなに美味しいか、とも散々言われました。そこで野菜のことを勉強して、生産者の畑に行って、本ではわからない話をたくさん聞いて、そこにある野菜がなぜ美味しいのか、風景や水、気候からつながる味までわかるようになりました。
日本に農薬がいっぱい撒かれるようになったのは、ドイツで毒ガスを作っていた人たちが第二次世界大戦後にアメリカに行き、農薬を開発して日本に来たためだとわかった。ということは大戦の前に庄内の土地に順応していた野菜なら無農薬でいけると思って探したら在来作物と出会ったんです。庄内は戊辰戦争では幕府側だったので敗戦藩として新政府から放置された場所のままだったおかげで大都市用の生産ではなく庄内のための生産になったので、小さい畑がいっぱい残っていたんです。そうやって昔の漬物用の庄内用の野菜が残り、その野菜を使って料理していたら、マスコミの人が世界で一つしかないイタリアンだと紹介してくれた。庄内に日本のハーブ(野草)を使いこなす天才シェフがいるとも紹介されました。お金がなかっただけなんですが(笑)。庄内は食材のバリエーションがすごいということがわかって、じゃあ食の都宣言をすると言って、「食の都庄内」と宣言したら、多くのスターシェフが食材を見に来てくれたので、青山のラ・ブランシュの田代和久シェフとかレストランテ アクアパッツアの日高良実シェフとか、三國清三シェフとか、全員生産者のところへ連れて行くということをやっていたんですね。そんな注目されてきたときに起きたのが、山形県の無登録農薬問題です。32歳の奥田青年は、行政がやること、僕が1人でやること、企業がやることって、色分けして庄内の魅力を全部一枚の紙に書きました。これが全部埋め尽くされたときに食の都は完成するんです、って。その時の僕は実家の借金だらけでした。県の機関の支庁長に、これやらないと山形県がだめになりますって言ったんです。そうしたら君のその書いたものは素晴らしいと言ってくれて、食の都庄内親善大使を命じてくれました。庄内は何がよかったかというと、料理人と生産者と知識人をつなぐいいトライアングルの関係ができたことです。そうするとこれを中心にマスコミとか行政とかいろんな人が繋がって広がっていくんですよ。そうして奥田さんの文が面白いといって連載してほしいっていわれたのが「四季の味」。その後にほとんどの雑誌が来て1日3件ぐらいの取材をやっていました。僕はその時若かったから同じ料理は二度と出さないって言っちゃって。ホテルの時のレシピが2200ぐらいあるから絶対なくならないと思っていたんですけど、1日約3件、徹夜もしたりして8種類ぐらいの取材で出していたらとうとうレシピがなくなっちゃったので、うちのヤギを殺してローストして涙のソースを作ったらそれがあまりにも本で綺麗に仕上がってきた時は、俺終わったな、、って思いました。自分の欲求を満たすため、自分のプライドのためにうちのヤギを殺してしかも自分の感情でソースを作っちゃったんです。あー俺終わった、と思いました。

 僕はこのとき取材に疲れて、生産者の人に、このぐらいでもういいですよね、食の都になったし、って言ったら先輩からお前は庄内のために出続けろって言われて、結局断れなくて続けていて、なんか情熱大陸に出ませんかってなっていって、出たら庄内フィーバーが起きちゃうんですよ。
 庄内の主な江戸時代からの藩の歴史は戦に負けたことのない酒井藩からだったんですが、明治になってからの140年間はすごく冷たくされた藩、その結果在来作物が残ったんです。でも今ね、食べ物で盛り上がってるんですよ。僕が終わると庄内の農産物が売れなくなるって勝手に思い込んで、売れなくならないようにするにはって、そうすると小泉今日子と美空ひばりとサザンオールスターズのことを勉強するんですよ。ロングヒットの人です。そうするとロックも歌うしバラードも歌うし変な音も歌うっていう共通項がわかるんです。なので料理もやるし料理講習会もやるし、あと寿司も握るようになるという風になります。だからいろんな分野ができるとその人の底が見えなくなる。底が見えると売れなくなるんですよ。僕が売れなくなると鶴岡市の農業が終わっちゃうからって勝手に思って(笑d)。情熱大陸では、”ここには昔から美味しい時間が流れていた・・・って始まりました。次の日から車がいっぱい来ました。そこでスタッフに、やっと明治からの歴史の扉が開いたぞって言いました。お前ら俺についてこい、って言ったら、シェフにはついていけません、て言ってスタッフ全員やめていく。だから侍みたいな顔するとだめで、それから笑うようにしました。JRさんが僕の適地適作マップっていうのを作ってくれて、情熱大陸ってあの頃神番組だったから、まだ借金も返してない僕の写真が駅に置かれて、僕の旅商品ができて、高速道路で僕の車を抜いていったバスの後ろに僕の写真が出てきて俺だあ!なんてことまで。知らずのうちに僕が旗振り役になってて、町中に食の都庄内の旗がなびいて、とうとう空港の名前が「おいしい庄内空港」って変わるんですよ。いろいろ旅商品ができてみんなで楽しもうって言ってそういうふうに地域がなっていくんですよね。

 そしてとうとう鶴岡市が、ユネスコの食文化部門に登録しよう、ってなりました。そのときに僕がよく使っていた資料があって、山形県の庄内には5つの海があって、住んでいる魚は餌がいっぱいあるところにいますから、大体そういうのが産地なんです。縄張り争いに負けたのが群れを作って、河口付近に餌を取りにいくんですよ。塩分の強い場所とか川の近くとか、同じ魚でも全部味が違うんです。
 ここにいる魚は138種類、上流中流から湖があって、ここにいる淡水の生き物は40種類、土が七つの土を持っています。山形県は夏暑くて冬寒くて温度帯がいろいろあるので、実は適地適作がいっぱいあります。野菜とかフルーツ、ブドウだけで80種類、リンゴだけで60種類も作ってるんですよ。山形県の会社員の給料は47都道府県中43位ぐらいだから、人に使われるより農業をやった方がいいわけです。その結果、たくましい農業地帯が残っているんです。山岳気候、盆地性気候、海洋気候と温暖湿潤気候を持ってるので、雪に弱い作物以外全部作れます。在来作物、現代の作物、そして未来の産地研究室もあって、現在過去未来で作れる。食文化と言ってますけど食習慣ですから。殿様が食べる料理と農家の人が食べてる料理は違って、やっぱり農家の家は自分のところの農作物を食べるし漁師は魚ばっかり食べるから、食文化ではなくて食習慣なんです。ところがこれを文章にまとめて体系化すると食文化に変わるんですよ。そうするとこのぐらいの食材がすごくて、料理もいっぱいあるってことが文字になってわかってくるんですよ。
 そしたらついにユネスコの食文化都市になるんです。なった日がね、25歳に帰ってきた鶴岡駅で誓った日のちょうど20年後の12月1日なんですよ。あのときの判断は間違ってなかったんだと思いました。
 そうしたら、外人のいない街に外国から人がいっぱい来るようになった。1ヶ月、食材の勉強をしに来てくれるようになるんですよ。鶴岡の廃校を利用して。世界中からミシュランのシェフが来て、僕なんて貧乏で海外で修業できなかったのに、うちの店の料理を勉強しに来ると言う、逆になっちゃった。あと、実は庄内は国宝・重要文化財の数が東北で1位だとわかるんですよ。無血開城して空襲も合ってないから。そうすると食べ物と関連してる重要文化財がいっぱいあるってわかるんですよ。ここには昔から美味しい時間が流れていたというフレーズだ! 江戸時代の本にもおいしいこと書いてある。
 地域を丸ごと買ってもらうためのプレゼンテーションっていうのがガストロノミーツアーです。給食の発祥の地とか、農業信仰の山の国宝の五重塔で終わる。そういうツアーです。これアル・ケッチァーノの店の前のバス停です。料理人たちに見せると俺もいつかこうなりたいって、皆写真撮ってます。また食べたいと思っていただける味で作ります。

 食材の姿をそのままで料理作って、食材をミキシングしてピューレにしたりして食感を消さないように気をつけてます。ちょっとだからちょっと違う食材そのまんまの形の料理、生産者の生き様も努力へのリスペクトも料理として表します。生産者の方には来てもらってツーリズムの方と一緒にただで食べてもらいます。日本の男性のサラリーマンの平均のお小遣いはいくらか知ってますか。2万8000円です。女性は4万3000円です。だから一応うちの店の料理の値段は男性が来て女性にかっこつけて二人分払って2万8000円で終わるような値段にしてます。見て聞いて知ったことをすべて腑に落ちるように食べてもらいます。
庄内で生まれたアル・ケッチァーノの料理の考え方は、自分の住んでいるところは食材のバリエーションが多い。海のものと山のものを掛け合わせて相性がいいものを見つける。そういう料理です。肉の中の美味しさっていうのはイノシン酸。野菜や海藻はグルタミン酸。だから植物と動物を掛け合わせて食べていただく。昆布と鰹節の組み合わせと同じ。その2つが組み合わさると旨味が5倍に膨らむんですよ。なので野菜と肉を合わせて必ず相性のいいものを見つけるんですよ。

 イタリアンって素材の料理ですから、絵の具だと原色も3つだと何かの色になるんですよ。5対4対1っていうのがだいたい黄金法則です。そうするとグルタミン酸とイノシン酸を5対4のどっちかにして1の何かの要素を持ってくる。この組み合わせに違和感がなければ塩だけでほぼ美味しくなります。有名なシェフたちの料理は一目見たらわかります。唯一無二の料理作らないとだめで、有名なシェフは皆必殺技を持っています。アル・ケッチァーノは実は2000年からソースをほとんど使ってません。生産物で特上を探せばソースはいらなくなるんですよ。食材の生きている環境が近いので、私が目指したのは料理を見たときにその後ろに風景を想像させる料理です。春だとこういう料理とか風景が見えるとか、唯一無二の料理を作っていかないと、鶴岡までお客さんを呼べないと思って。
 私が大事にしている言葉が二つあって、一つは、誰も犠牲にせず、お互いに育み合いながら関わった人すべてを幸せにする。もう一つは誰にも染まらず誰にも惑わされず、自分が正しいと感じたことを正しいと思ったやり方で、日々起こることは、宇宙の営みからすればほんの小さなことを、でもそこに喜びが生まれたら、それは何にも代え難いほど大きなことです。日本のために料理人として頑張ります。これからの日本を創る人たちは、1人1人が素敵な粒子となって、自分の未来をイメージして、もしくは先輩が寿命の中で成し得なかったことをよく聞いて、それを自分の身体を使ってやるんですよ。新たな地域の幸せを食から作っていきましょう。皆が共に喜び合える新しい日本を作っていきましょう。ありがとうございました。

 今期も魅力たっぷりのツアーが企画されています。下記リンクから最新情報をゲットして、お早目にお申込みください!

2025年度 現地実習ツアー情報 | 食の熱中小学校
食を学び、食文化を遊ぼう地方が抱える多様な課題に、あなたも貢献できることがたくさんあります。日本の食を持続可能な未来に導くためには、皆さんの新たな視点と創造力が欠かせません。食の熱中小学校では、座学の講義だけでなく、熱心な講師陣の案内のもと、実際に現地へ足を運び、様々な体験を通じて、消費者と生産者の相互理解を深める機会...

5月6日(休) Garden Party -春の文化祭-参加者募集中! 人数制限あり!

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第2回 のと熱中授業 どなたでも無料で参加可能です。お申込みはこちらから

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事務局より:

 孟宗竹の筍もそろそろ旬の終わり。と書いてみて、竹に旬と置いてタケノコになるといまさら気づきました。ご承知の通り竹は中国原産で、その芽を食する習慣があるのは東アジア中心、欧米での食のイメージはあまりありません。缶詰やパウチで販売されることが一般的ですが、生食、いわゆる「さしみ」で格別な味と食感を楽しむ文化があるのは日本ぐらいでしょうか。しかし、生のタケノコにはシアン化物が含まれており、摂取すると消化酵素の影響で青酸に変化し、簡単に中毒を引き起こす可能性があるそうです。生食に適しているかを目利きし、正しく下処理を行うには、やはり職人の手を借りなければならないように思います。

「熱中通信第13号」発行:食の熱中小学校事務局(一般社団法人熱中学園内)

公式サイト:https://shoku-no-necchu.com/

Mail to: hello@shoku-no-necchu.com

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