第10章 老いてからでも遅くない

 能登半島突端にある珠洲市の演奏会場「ラポルト珠洲」は2003年に開設した540人収容の珠洲市の多目的ホールで、海に面した能登半島でも有数の演奏会場である。震度6強の地震に奇跡的に耐え、周辺の港や駐車場がガタガタのままだが利用が可能だった。珠洲音楽文化協会はここで毎年スプリングコンサートを重ねてきたが、昨年は中止せざるを得なかった。今年はその46回目として ‘のと・おん’ との共催で復活したいという話に、第3回「のと復興音楽ツアー」を相乗りさせていただくことにした。

 今年、珠洲市音楽文化協会は創立50周年という記念すべき年で代表の南方治さん(住み慣れた家を撤去して仮設に住んでおられる)が受付で来場者の対応に忙しい。震災前1万3千人を数えた住民はたぶん今は半分くらいと想像しても10人に1人来ていただけるかという心配をよそに、12時からのフロアーコンサートに続々と人が詰めかけて、12時30分の開場前から長い列ができた。

 来賓の泉谷満寿裕珠洲市長、吉木充弘珠洲市教育委員会教育長、小柳諭史株式会社内田洋行取締役常務執行役員も大きなホールの席が埋まっていくのを嬉しそうに見ている。「天地人」の大間ジローさん、HIRO KUROSAWAさんも気持ちが乗ってきてるのがわかる。 スプリングコンサートは子供たちによる「のとキッズコーラス」を皮切りに、珠洲市民合唱団、珠洲フラウエンコール、秋吉ママレモンズのコーラス、次に吹奏楽としてすずカルテット、OBKトリオ、緑丘中学校吹奏楽部、飯田高等学校吹奏楽部の演奏に大きな拍手が沸いた。そして中核となるすず吹奏楽団の演奏と続いた。第2部は「天地人」の演奏、第3部がコラボ演奏と、満員の会場は終演17時までほとんど帰る人もおらず、長く代表をやっている南方さんですら観客のこれほどの盛り上がりは見たことがなかったぐらいの「ラポルトすず」開設以来の記念すべきコンサートとなったのだ。

 プログラムに書かれた、すず吹奏楽団からの挨拶文から抜粋する。

 結成14年目を迎えることができました。令和6年1月1日の能登半島地震発生後、何をどうすればよいのかも分からず、ただただ時間だけが過ぎていきました。そんな中、何人かの団人が音楽の力を信じ、避難所等で独自の演奏活動を行い、被災した皆さんに勇気を与え続けていました。5月、「この団を無くしてはいけない」との思いで練習を再開しました。
 活動は思うようには進みませんでしたが、1人、2人と活動を再開する人が増えていったことは大変嬉しく、力強さを感じました。
 9月に起きた奥能登豪雨は私たちの生活や活動にさらに追い打ちをかけてきましたが、10月27日には「珠洲吹奏楽祭2024」を開催することができました。その後も互いに助け合い、今日を迎えることができています。(以下省略)

 被災してバラバラになった演奏者達が、いつか避難所にいる人たちに勇気を持っていただけるよう「上達したい」と練習を重ねていく中、「天地人」というプロとの共演という目標ができ、さらに金沢などに移転した仲間も練習に参加し、「すず吹奏楽団」の復活を核として他のチームにも積極的に声を掛けていった様子が目に浮かぶ。
 アンコールは「故郷」。藤井真哉さんの指揮で、吹奏楽、カルテットそして「天地人」による合同演奏と、観客で歌った。「忘れがたき ふるさと」にハンカチを取り出す人が大勢いた。

 これは、音楽どころではなかった皆さんが、少しずつ復活に向かって「のと吹奏楽団」が ‘上達しよう’ と努力を重ねてきたことへの共感の涙ではないだろうか。 私は「音楽には災害で失った時間を切り返す力がある」という考えから「のと復興音楽ツアー」を始めた。だが、地元で被害を受けた人たちが音楽を通して再びチームワークを取り戻そうとするこのエネルギーこそが、真の力だった。この大きなエネルギーを、同胞として、同志として感じることができた演奏会であった。

 終わってから「天地人」の大間さんに、大間さんはオフコースの時は武道館いっぱいのファンを元気にした人、でも今日はファンではない、普通の能登の人々が「天地人」からエネルギーをもらった記念日ですね、と言葉をかけた。大間さんもそう思っていたらしい、嬉しそうに大きく頷いた。
 538席のホールが初めて満員になった。それも成功談だ。でも、本当の復興の力は、チーム全員がひたすらいい音楽を届けようという思いで努力を重ねてきた時間と、そのチームの力を創った人たちの苦労に住民が共感したことだと、78歳で初めて得た珠洲市での体験。

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