番外編 猪俣昭夫さんの「マタギの心」を理解する
これまでの人生で「師」と言える方々はたくさんいるが、猪俣昭夫さんは私の「師匠」だ。
今から10年ぐらい前に、会津若松市の(株)栄町オサダの武藤義榮社長(現在は会長)から蜂蜜から作るミードというお酒に挑戦している日本酒製造の社長さんを紹介され、その材料の蜂蜜は奥会津のマタギから入手しているという話を聞いて、日本ミツバチに興味を抱きマタギの猪俣昭夫さんに会いに行った。
それ以来ずっと日本ミツバチ飼育の「師匠」としてのみならず、「マタギの心」の先生として師事してきた。横浜で「都会のマタギ」を目指し、日本ミツバチの飼育も10年になった。
猪俣昭夫さんの家は、福島県会津若松駅から2時間電車に揺られて到着する会津川口駅前にあって、奥様は食堂を経営している。奥会津最後のマタギは、日本ミツバチの養蜂、キノコを採り、釣りをし、鹿や熊を狩っていた。
福島県金山町は限界集落ながら、たくさんの伝統、文化、自然の恵みが営々と育て、守られてきたことを知り、まずは「日本ミツバチの聖地」として人を呼んでみようということになった。
会津若松市の櫻田修一さんや平野きし子さん、宮森光子さん、東京の福田好明さん達の支援をいただいて、外来植物が届いていない地で蜜を集める日本古来の蜂が居るこの地を訪ねる―日本ミツバチ‘養蜂の聖地’への旅―を企画した。
奥会津の地では外来植物がまだ少なく、日本古来から続く木々の花環境で日本みつばちは生活している。雪深い地で花季は短いながら、栃の花や薬草などが豊富で環境がいいと考えられている地で自然の免疫物質の蜜を楽しもうというものだ。
「京都ニホンミツバチ週末養蜂の会」を主催する会長のご子息の、志賀裕一さんはまだ20代ながら、日本ミツバチ飼育入門書の出版、ネットによる会員(当時で2000人)への情報提供の支援などをIT企業に勤務しながらやられていた(やがて週末養蜂の会として起業された)。志賀裕一さんにはネットによる集客をお願いして全国から日本ミツバチに関心がある70人ぐらいが辺境の地に集まったのだ。遠くは広島県、関東からも来た人たちは常連として猪俣昭夫さんの会に継続的に表れるようになった。
原産地をはっきり確かめた本物の日本ミツバチの蜂蜜はほしいが、自分では育てられない人向けには、オーナー制度も作った。
コロナ禍で中断したが「奥会津日本ミツバチの会」は第8回まで開催され、玉梨温泉「恵比寿屋旅館」に宿泊して延べ500人以上が奥会津まで足を運んでくれた。
猪俣昭夫さんによれば、日本ミツバチと熊は日本の森に無くてはならないものだ。
木の花に実を豊かにするのは、日本ミツバチの仕事、その実を食べて遠くまで運び、森の木々の多様性を豊かにするのが熊の仕事だ。
2019年12月に米国シアトル校の授業をやっていただいた時、授業の中で「森の木々は毎年その生育、花や実の付け方が違うために、どうしても動物の餌のバランスが変わり、頭数が違ってくる。その獣や動物たちのバランスを保つために、マタギは狩をしてそれで自分達の命もつながせていただいている」マタギは森の調整役だと話していた。
「師匠」に「堀田さんのように、都会に住んでいても‘マタギの精神’をわかってくれる人もいる」と言っていただいたのは勲章をいただいたような気持ちになった。
それからは、行き過ぎを是正しバランスを取る、例えば日本の東京一極集中に一石を投じたいのも「都会のマタギの流儀」だと思って活動してきた。
その体力有り余ると思っていた「師匠」が1年前、雪の中での鹿狩の後、脳梗塞で倒れてリハビリをされているので、昨年末リハビリ施設に猪俣さんを尋ねた。
車椅子で現れた猪俣さんは、開口一番、「堀田さん、横浜で地震があったらすぐに私に連絡してください。何とかしますから」だった(能登半島地震の1週間前だ)。
その後私は、猪俣さんが体現する「マタギの心」について目から鱗の思いに至った。
マタギは、「いつまでにこの山をとか、この熊の群れをどうしたい」といった具体的な目標のようなものがあるわけではないが、その年、その時に山から助けて欲しいという声を聴いて動いて来たというのだ。
猪俣さんより3つ年上の「都会のマタギ」ももう目標を追いかけるのはやめにして、その時その時の助けを求める声に反応していく生き方はどうだろうか?
これからは自分のやりたいこと、やらなければと思うことを夢中で追いかけるよりも、頼まれたことを自分でできるだけやっていく「マタギの心」に近づいていこう。
(2024年2月6日 77歳の誕生日に)