第58章 宮原博通さんの ‘気がつけば「まほろば寺子屋」の塾長’
全国20ある熱中小学校の中で、地元で ‘研究所’ 開設を標榜する2人の教頭先生がいる。
一人は、高知県高知市の「南国生活研究所」の黒笹慈幾仁淀ブルー熱中塾教頭先生。もう一人が山形県高畠町の「和の暮らし文化研究所」の宮原博通高畠熱中小学校教頭先生だ。
共通点は生まれ育ったところではないところに移住し、気がつけばその土地を愛し、周りが離さそうとしない状況にあり、かつ盛んに情報発信していることだ。
宮原博通さんは東京浅草の生まれ、芝浦工業大学建築学科卒業後、大手建設会社に入社し、数多くの地域活性化プロジェクトを手がける。仙台の県立宮城大学で事業構想学部教授として「プロジェクトデザイン」「開発計画」などについて教鞭をとり、その後山形県高畠町に定住して約20年になる。
今から9年前に役場のアドバイザー的な存在で、高畠町の時沢小学校の廃校再生でお会いしてから、ずっと熱中小学校の教諭、そして教頭先生として全国で授業をしていただいている。
当時、高畠町の和田地区は日本でも有数の有機農業の地として、全国的にも注目されていたパイオニア的な土地だった。
後に有機農業の草分けと言われる農民詩人・星寛治さんは当時、共同防除組合の役員を務めるなど農業近代化の先兵だったそうだ。だが、化学肥料で成長を急がせたリンゴの木が病気で壊滅。星さんら若手農家達は1973年9月、高畠町有機農業研究会を発足させ農薬を使わない米作りに挑戦する。これは、消費者と生産会議をあらかじめ行い、直接の流通を独自に作るという、当時の主流であった、農協を経由したものとは一線を画した異端だった。
ずっと後のことになるが私も消費者として、和田地区の特定の農家から予約制で無農薬米を買い取るグループに入っていた。独自の集会場をもち、有機農業にあこがれた若者の入植もたくさんあったが、平均年齢27歳で決起してから40年余り、私が消費者として参加した9年前にはすでに後継者問題も始まっていたと思う。
宮原博通さんは、こうした高畠町の魅力が「食と命」の繋がりを重視していることにあり、持続可能な農業にシンパシーを感じてきた。どの季節もふさわしい時間を感じながら暮らせる、その日常がある高畠町で日本のそれぞれの地方にあった、知恵と挑戦の伝統を大切にした街づくり理論を磨いてきた。
熱中小学校の場を通じて有機農業文化の交流を起こしたいと奔走もされた。
和田地区で若者たちが決起してから今年は50年目にあたる。
高畠町は国のグリーン農業への流れを汲んで、基本方針を制定し、有機農業発祥の地として再出発しようとしている。
熱中小学校の場で、宮原博通教頭先生がトライしようと来たことが周回遅れで追いついて来た。この町の「食の熱中小学校」も始まる。
7月の授業日に高畠熱中小学校を訪問して、2階の「日本の和とくらし研究所」に顔を出すと、ちょうど5、6人の小学生に宮原さんが書道の手習い中だった。
高畠の地は、古事記などにしばしば現れる「まほら」という古語に由来しており、山に囲まれた住みよいところという意味の、‘まほろばの里’ と言われる。
朝は霧が立ちこめて悠久の時間を感じさせる、ここ高畠町で、宮原さんは寺子屋活動を通じて、この地で苦心して来た人々の歴史を教えようとしているに違いない。
宮原博通さんのインタビュービデオはこちら: