第9章「ゼロ戦の絵は飾らない」(株)アイ・オー・データ機器創業者・細野昭雄さんの ‘継続’ の世界
約7年前ほどから赤坂のオフィス・コロボックルで細野昭雄さんを囲んだベンチャーの会に参加させていただき、細野さんが若いITベンチャーのメンター役を勤めている姿を拝見してきた。
昨年は事業構造のダイナミックな変換に中期的に取り組むために、マネージメントによるMBOを決行して非上場化もしている。
6年前にはご自身の株式を基に「公益財団法人 I-O DATA財団」を設立し、株式の配当金を毎年ITを利用した社会改革の実装や新しいビジネスモデルのトライなどに研究者の支援事業をしてきた。
私はその選考委員会出席のため2023年2月に金沢を訪問し、細野さんのインタビューの時間をいただいた。
ガレージからの起業は米国のHPのカリフォルニア州パラアルトでの創業話が有名だが、日本でも(株)アイ・オー・データ機器は細野さんが、1976年石川県金沢市の中心地近くの自宅1階で創業、ガレージが工場だったという。細野さんは、データの入出力関連に特化して社名のIOも、コンピューターにデータを入力する input の「 I 」、コンピューターからデータを出力する output の「O」からネーミングしたそうだ。
「社屋は、細野の自宅一階とした。工場となったのはガレージ。夏は暑く冬は寒い。特に冬が厳しい。寒いので電気ストーブを点けるとブレーカーが落ちる。そのためオーバーを着て寒さをしのいだ。
何もなかったが、夢と希望があった。『あの頃は、みんな話し出すと止まらなくなった。酒も飲まず、飯も食わず、明け方まで話し込んだ。未来の可能性を語り、エネルギーに満ちていた時代だった』と細野は懐かしく当時を振り返る。」(ホームページ【アイ・オー・データ機器の創業】開発:1976年から)
それから47年にわたって世の中とITの激しい変化の中で、常にちょっとしたことから ‘なぜそうなのか? 何かがおかしい’ と数年考え続けて新製品が形になってゆく様は、当時の様子とあまり変わっていない。
金沢の本社に行くと、いつも取り組み中の新製品のデモを見せてくれる。
他の選考委員(アカデミアの先生、企業の現役の開発管理者など)と金沢の美味しいお酒と料理を食べながら、最終列車まで議論が盛り上がっていく。 私にとってこの会は世の中の技術的なトレンドを学べる貴重な時間になっている。
日本のIT産業の帰趨を見てきて、細野さんは一貫してGAFAによるクラウド上での情報の人質化のリスクを警告してきた。自社でも管理ができるハイブリッド化の進展がなかなか普及しないことに我慢しながら製品開発を継続している。‘熱量を貯めながらも冷静な継続’ こそその本領だ。
さて、金沢の本社には欧米のプロペラ時代の飛行機の絵がたくさん飾ってある。
しかし、‘ゼロ戦’ や ‘隼’ などの日本の機体の絵がまったくないので、その理由を聞いてみた。
「一番好きな飛行機は、イギリスのスピットファイヤー、あの空気口の構造とスマートな機体、それに継続的改良で成功しました。一方、ゼロ戦は優れた飛行機だったが、アメリカはその弱点を研究し、重いが頑丈で馬力の強いグラマンで、ゼロ戦1機あたり、2機で追い込みながら撃ち落とす戦法で圧倒していく。開発を継続していかない、いけなかった日本の戦闘機は私にとって反面教師で、飾れないんです」とのことだった。
「でも世界で数機しかない飛べるゼロ戦の栄エンジンの音を聞きに行って、涙が出ました。」 強いものにはそれ以上の弱いところがある、それを補い続けてこそエンジニアの仕事、経営者の責任ということなのだろう。
細野昭雄さんのインタビュービデオはこちら: